昭和44年8月29日 朝の御理解★★
御理解第78節「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫を絶って(きらして)しまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ」
神様の機感にかなう、心にかなう信心をだんだん身に付けてまいりまして、おかげを受けていかなければなりませんが。神様の御恩徳が分からしてもらい、そこから神恩報謝の生活ができるのですが、その神恩報謝の生活というその内容に、いよいよ神の機感にかのうた氏子ができていかなければならん。それにはまず、自分の子供や孫が、神の機感にかのうた氏子になる「信心のしつけ」というものが、私は大事だと思うのです。ね。
自分だけが大恩を知った。自分だけが神恩報謝の生活ができたと、というようなことで、やはりそれが、子供に孫に伝わって、それが『三代続いたら』とこう仰るのですから、ね。もうそのへんの信心のしつけと言うのが大事。
だんだん神様の大恩が分かって、神恩報謝の生活ができるようになりますと、おかげを頂いてまいります。おかげを頂いてまいりますと、何かがそこに欠けてくるというか、人間の持つ、まあ言うなら、悲しさとでも申しましょうかね。あの、言うなら、「苦労を厭い(いとい)楽を求める」といったような心が強くなる。
何ですかね、あの新劇に「夕鶴」というお芝居がありますよね。山本よしえさん。もうそれこそ何百回となしに、その、あのお芝居を演じたと。もう天下一品の定評がありますお芝居ですね。
それが、恩を受けた人に対して、自分がその人の嫁さんになって恩を返すと言うのです。それはたいへんな、夫婦仲むつまじゅうよろしく、鶴の化身である「お鶴」と言いますかね、仲むつまじゅう過ごしておりますけれども、だんだん、その主人、男の方へ欲が出てきたんですね。お鶴が織ってくれる、その反物を次から次と織らせたり作らせたりいたしまして、それをお金に換えて、いよいよもう贅沢と言うですかね、いうようなふうになってまいります。それで、しまいにはとうとう、その鶴の精であります、お鶴がその家から姿を消すという、まあ筋のお芝居なんですけれども。
確かにあの、その、鶴を助けた。助けた鶴からまた助けられる。そこに幸せがあったんですけれども、その幸せも束の間、また元のもくあみに戻ったとこういうのですね。そこに人間の持つ、ひとつの業とでも申しましょうかね。そういう悲しいさだめと言うものをば、そこに現われておるわけですけれども。
信心をさして頂く者は、この辺のところからが、私は大事だと。そこんところを教祖様は、一年まさり代まさりにおかげの受けていかれる道を教えて下さってあるのでございますから、「無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができる」と。そういうおかげを、私は頂いていかなければならんと思う。
それにはどうしても、私どもが信心を分からしてもらって、その信心をです、子供に孫に伝えていく「信心のしつけ」というものが大事。
昨日は、竹葉会でございましたが、同時で昨日あの、青少年の方達のキャンプファイヤーが、ここで賑やかに行なわれました。ですからもう、昼から、もうお広前はごった返しと言うですか、もう、てんやわんやでした。小さい子供達がたくさん来とりますし、また、若いお母さん達の集いですから、皆子供連れて信心共励をいたしておりますので、私はその、そこへ、2時頃から4時頃までの間、あの、時間、ここのお広前が、もうそれこそまるきりここを運動場のように、子供達が一生懸命暴れ回って遊んでおるのを見せて頂いてからですね。
あの、子供達は、自分では気が付いていないですけれども、このようにして信心のしつけがだんだんできていきよるなぁ、と思いました。もうわけは分からんなりに、神様を拝むという事やら、ね。神様の有り難いといったような事が分かってる。
昨日、竹葉会の方達のお話を聞かせて頂いても、やっぱそうです。もうかえって子供に教えられる事があると。ふうに久留米の石井さんが発表しておりましたが。
先日から子供が、たいへん熱発をしてから難渋した。もう子供は立ちきらんようにその、あるのですけれども、どうしてもその、子供が「神様を拝む」と言う。それで、抱いて行ってからその、まあ、神様の前に連れて行ったら、神様の前でそのやはり、御祈念をして、して御神米を頂くとか、お神酒さんを頂くとか言うてその、いう姿に触れた時に、お母さんが教えられた。ほんとにこの姿を主人にも、誰にでも見せたいとこう思うた、といったような話をしておりましたが。
ほんとにね、それでやっぱりおかげを受けております。子供は純真ですから、きつい時には、苦しい時には、お神酒さんを頂きゃ、神様を拝みゃ、お神酒さんを頂きゃ楽になれると、それを純粋な心で、それを信じておる。ね。
私どもでもやっぱり、小さい時からそういうふうにして育てられておりますけれども、もう、その親の信心が、そういうふうに、子供にこう伝承されると言うかね、継承されると。そういう私はその、働きがなされなければならんのですけれども、この、おかげを受けますとですね、子供に信心を伝えるということを、が非常におろそかにするようになる傾向があるのですよね。
ですからこの、親の一代が、まあおかげを受けたけれども、子供や孫の代になって信心が絶えてしまうというようなことになってしまう。いかにも神様の大恩を知っておかげを受けたようであるけれども、その大恩の分かり方というのが、そのたいへんお粗末であるように思う。
「天地の大恩」を分かるのではなくて、言わば、「おかげの恩徳」とでも申しましょうかね、ただおかげの有り難さだけは分かっておるけれども、天地の大恩が分かっていない。「神の大恩を知らぬから、互い違いになる」と仰る。「天地の神のおかげ」とは私は、天地の大恩を知ることだと思います。
昨日、夜の7時半から開かれました。夜の7時半からここで開かれました、あの(えいか?)を囲んでのキャンプファイヤーを私も始めから最後まで見せて頂いたんですけれども、ほんとにあの、子供達の、まあ祭典だと私は思いました。子供と言えば、若い青年の方達もですけれども、若い人達の、ほんとに御大祭のようなものだと思いました。一生懸命あれを行ないますまでには、いろんな準備もされます。そして子供達が、ああして集まって、まあ楽しく一夜を過ごさして頂いたわけですけれども。
その、昨日、私その事のお取次ぎをさして頂いとりましたら、★『末来を開く』ということを(一語?)に頂きました。ね。あの、『末来を開く』ということは、私、今日ここで頂きます。ね。「子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげ」に繋がるもんだとこう思うのです。ね。
どうでもひとつ、私どもは、そういう自分の子供達、孫達の上にもですね、末来を開くほどしの、まあ活力と言うかね、そういう力を伝えておかなければならない。養うておくことを教えとかなければならないと。
昨日、青少年の方達に頂いた御理解を、まあだいたい筋だけを文章にこうまとめてみましたから、それをひとつ読んでみましょう。
★『誰もいない所でたった一人で暮らすならば、自分の思いのままに、または、わがまま勝手にすることも許されますけれども。共に手を取り合い、助け合ってゆかねばならぬこの世の中では、今晩のこの催しのように、心を合わせ、みなさんの祭典とも思われるこの行事が、この事だけにとどまらず、全てのことに協力一致、一人でできぬ神様がお喜び頂けれる事柄にも生かしてゆくことが信心であります。』ね。それが、そういうことが信心だというふうに、ね、まあ言うてある御理解を頂いとります。『道の若葉であるみなさんが、これからの合楽の、今、金光教教団の為の末来を開くダイナミックな生きた力になることを願い、それを信じます。どうぞ残り少ない夏の名残をただ今の、ただ今申しましたようなことを内容として、愉快に楽しく過ごしますようお祈りして挨拶にいたします』というような御理解を頂いたんですけれども。
この中からですね、私は、楽しく、または愉快にですね、信心を継承、信心の継承がなされる雰囲気を家庭の中にも作ってかなければならん。ね。
「お前だけが助かりゃいいのだ」といったようではなくて、ほんとに手に手を取って協力一致していかなければ、神様がお喜び頂けれる、偉大なと言うか、大きなと言うか、そういう働きにもならないし、ね。そういう意味においての末来を開くこともできない、といったような信心がですね、これは、教会だけではなくて、家庭にでもそういう教育が、私はぜひ必要である。ね。
為には、そのお父さん、親と言うかね。信心を頂いておる私どもがです、ね。それが教えられるだけの信心というのは、やはり、「神の大恩を知り、天地の大恩を知る」そこに、神恩報謝の生活の中からです、そういうことがいつの間にか子供に伝えられる。しかも、信心生活というのはこんなに有り難い。しかも楽しいもんであるというようなことをです、祈ると同時に教えていかなければならない、といったような事を、私、昨日、そう感じましたら、今朝からこの78節を頂いて、頂きますところが「無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができる」という、ここんところを頂くのです。
そこで私どもの信心の、をまあ受けてくれる子供達が孫達が、ね。いよいよほんとの意味においての有り難い末来を開かして頂くほどしのですね、力を養うていく為に、これはいよいよ私どもが、これはただ御利益信心やおかげ信心だけでとどまるようなことであっては、決して子供達には伝わってはいかない。
そういうおかげだけの目的、いや、おかげだけの信心であるとするなら、必ず、その「夕鶴」のお芝居ではないですけれども、確かに一時は信心しておった、おるおかげというものが、そこに現われてまいりますけれども、そのおかげが元で、かえってまた難儀な事になっていく。そういう信心ならば、子供達が疑問を抱く。ね。親の信心に付いて行こうとしない。末来を開くどころか、かえって不幸せなことにならんとも限らないような気がするのです。ね。
どうぞひとつ、末来を開いてもらう。または開かせる為にも、ね。「子供達への信心の継承」ということを大事。それには私ども自身が、ほんとの信心を身に付けておかなければ、それを渡すこともできないようでありますから、ほんとに良い信心を身に付けておかなければならんと思います。どうぞ。
明渡 孝